深谷の駅から1Kmほど高崎方面に来た清心寺前踏切の
西側に咲いた「忠度桜」が満開です。
約500年前から清心寺境内に咲いていた桜で源平合戦の
後に平忠度公の奥様と思われる方が、京から杖として
来た桜の枝を差した後で根付き今では「忠度桜保存会」が
育てている桜である
岡部六弥太忠澄は一の谷の戦に忠度を討ち如何に戦いの習いとは云え文武の
名将をあやめたことを心から惜しみ遺骸はその名もゆかしい明石市忠度町の
思い出も深い両馬河畔に葬った、その墓前には今山城守り源忠国朝巨が詠った
「今はただのりのしるしに残る石の
苔にきざめる
名こそ朽ちせぬ」
と、刻んだ石が建っている。
猶明石市右手塚町には、腕塚又は薩摩塚と呼ばれる忠度塚の三字を刻んだ
古い碑が、この前に滾々として湧く手向の井戸に亡き面影を宿して、今に
英雄の悼んでいる、これこそかの斬られた忠度の右腕を埋めた旧跡である。
戦い終えて凱旋した忠澄は携え来た斯の遺髪を、故郷岡部原最景勝地の
現清心寺境内に葬り、懇に朝夕香華を手向けた。
かくて星移り年を重ねること四百年の後、天文拾六年(1550)弐月熊谷
直実の敦盛に於けるが如く、関東の荒武者)岡部六弥太が忠度を弔うゆかしき
その心根に打たれ、深谷城主上杉憲盛の四天王と呼ばれた老臣岡谷加賀守清英
により清心寺が開創せられ、英霊はとこしえに弔わることとなった。
忠澄が遺髪を葬って程ない頃、忠度にゆかりのある菊の前と呼ばれる上﨟が
関東に夫と頼みし忠度公の遺跡のあることを聞き、香華なり手向けんと優しい
心根からはるばる鳥がなく東をさして下り来て、墓前にぬかずき杖にして来た
一枝の桜を献じて、懇ろにその冥福を祈った。
然るに不思議やその桜は根つき、花芯に二枚の小葉を持った紅白の二花が
相重なって一茎により支えられる、奇しくも契り深い夫婦の花が咲いた
これが今に至るまで世に珍重せられる、忠度桜である。
清心寺と忠度公の墓より