自治会だより9月

自治会だより

萱場自治会  

 

9月1日は防災の日です

 

毎年9月1日は防災の日です、1923年9月1日に発生した関東大震災を思い起こし防災意識を高める為、全国的に防災行事を実施しております。

 今年の1月1日の能登地震と同様の地震被害が94年前の深谷市でも起きている事を忘れないで下さい。

 

 萱場自治会でも毎年9月の回覧で、身近に起きた1931年の西埼玉地震について隣の自治会田所町に有る呑龍様での、お地蔵様の言われをお知らせしており、防災に役立て 戴きたく。

 

 西埼玉地震での深谷市での被害

 「深谷市史より」

 昭和6年9月21日午前11時20分3秒、マグニチュード6.9(深さ17Km)の地震が発生、 大地がグラグラと揺れ、寺の梵鐘は叩かぬのにボンボン鳴り響き、道路、田圃には亀裂を生じ 石塔、煉瓦瞑が倒れ、家屋の倒壊、半壊、橋梁の破損は随所に見られた、中でも田所町「富国館 製糸工場」の煉瓦造りの煙突(120尺=36m余り)が倒れその下で遊んでいた子供4人が無残 に即死あるいは重傷という悲劇を出し、警察演舞場や深谷小学校校庭には罹災者悲痛な面持ちで 避難し、郵便局では打電する人が詰めかけ局員は汗だくとなった、…余震におびえる人々は消えた 電灯の下にローソクを点じて、おろおろし或いは道路で夜を明かした者さえあった。

 この地震での深谷町における全壊家屋25、半壊24、煙突倒壊16、死者 男女  計5、重軽傷者 30人であった

 

呑龍様入口左手に有る富国館製糸煙突崩壊で田所町での被害写真

(お地蔵様の上に有り)


犠牲に成った4人の女の子を祀る4体のお地蔵様  


時間の有る時に一度、散歩がてら見学に行って見て下さい。

 

萱場自治会ではブログで活動を発信しております閲覧下さい、検索サイトで 「萱場自治会、深谷市

自治会連合会南支会萱場自治会が開きます、最下部に有る萱場自治会ブログへの以下アドレスをクリック

URL https://kayabagichikai.hatenablog.com/#edit

 

裏面には熊谷気象台が保存公開している、西埼玉地震の写真を掲載しております。

 

 

熊谷気象台保存の西埼玉地震被害状況写真



  

より詳細を見たい方は以下URLにて他市町村の被害写真を見ることが出来ます。

熊谷地方気象台 (jma.go.jp)

https://www.data.jma.go.jp/kumagaya/shosai/chishiki/ns_higai.html

 

   QRコード

 

令和6年萱場八坂祭り楽日

早朝から宿根自治会館前で開催の合同祭へ行きました

宿根と萱場の花姫の出迎を受けました


どこの自治会も神輿の担ぎ手不足ですが、宿根地内に有る

深谷高校ラグビー部50人が神輿担ぎの応援に来てくれました

午前中は北地区を神輿が渡行しました

 

夕方5時から南地区へ屋台が巡行、高崎線踏切を渡るため

JR高崎支社、本庄駅長、熊谷保線技術センター長、も立ち合いで

安全確認をして頂きました。

夜に成り明かりが点いた屋台です

二日間夜遅くまでお囃子を奏でたり、屋台を引いた子供たち、頑張りました

 

令和6年萱場八坂祭り中日

中日には夕方行われる、「深谷まつり」への参加の為

深谷駅前まで、屋台をお囃子を奏でながら、1時間を

掛けて屋台巡行しました

夕方から「深谷まつり」では神輿も一緒に「深谷まつり」を盛り上げました

萱場の屋台と神輿の饗宴でした、途中で雷雨が来て「深谷まつり」中止の指示が来ましたが、そんな事はお構いなしで

雨が上がった後で、予定通り20:20まで深谷まつりをやって来ました。

雷雨の時に屋台の大提灯がこんなにボロボロに

成ってしまいました

 

令和6年萱場八坂祭り初日

7月26日恒例の萱場八坂祭りを開催しました

神官による京都八坂神社からの神様においで戴く

降神の議から

この後参加者全員で玉串奉奠

夕方には宿根宿酔会が来てくれて、お囃子の叩き合い

楽しい時間を過ごしました

 

ふれあいまつり萱場

5月25日(土)10:00から久々のふれあいまつりが

開催中です

飲食はクレープ、ポップコーン、綿菓子、焼きそば、フランクフルト、赤飯、生ビール、酎ハイ、

お遊びは、切り抜き、ヨーヨー釣り、パターゴルフ、輪投げ

野菜販売もどれでも一袋100円です



 

忠度桜が咲きました

深谷の駅から1Kmほど高崎方面に来た清心寺前踏切の

西側に咲いた「忠度桜」が満開です。

約500年前から清心寺境内に咲いていた桜で源平合戦

後に平忠度公の奥様と思われる方が、京から杖として

来た桜の枝を差した後で根付き今では「忠度桜保存会」が

育てている桜である

 

岡部六弥太忠澄は一の谷の戦に忠度を討ち如何に戦いの習いとは云え文武の
名将をあやめたことを心から惜しみ遺骸はその名もゆかしい明石市忠度町の
思い出も深い両馬河畔に葬った、その墓前には今山城守り源忠国朝巨が詠った

「今はただのりのしるしに残る石の
     苔にきざめる 

        名こそ朽ちせぬ」

と、刻んだ石が建っている。
明石市右手塚町には、腕塚又は薩摩塚と呼ばれる忠度塚の三字を刻んだ
古い碑が、この前に滾々として湧く手向の井戸に亡き面影を宿して、今に
英雄の悼んでいる、これこそかの斬られた忠度の右腕を埋めた旧跡である。

戦い終えて凱旋した忠澄は携え来た斯の遺髪を、故郷岡部原最景勝地
現清心寺境内に葬り、懇に朝夕香華を手向けた。

かくて星移り年を重ねること四百年の後、天文拾六年(1550)弐月熊谷
直実の敦盛に於けるが如く、関東の荒武者)岡部六弥太が忠度を弔うゆかしき
その心根に打たれ、深谷主上杉憲盛の四天王と呼ばれた老臣岡谷加賀守清英
により清心寺が開創せられ、英霊はとこしえに弔わることとなった。

忠澄が遺髪を葬って程ない頃、忠度にゆかりのある菊の前と呼ばれる上﨟が
関東に夫と頼みし忠度公の遺跡のあることを聞き、香華なり手向けんと優しい

心根からはるばる鳥がなく東をさして下り来て、墓前にぬかずき杖にして来た

一枝の桜を献じて、懇ろにその冥福を祈った。

然るに不思議やその桜は根つき、花芯に二枚の小葉を持った紅白の二花が
相重なって一茎により支えられる、奇しくも契り深い夫婦の花が咲いた

これが今に至るまで世に珍重せられる、忠度桜である。

 

清心寺と忠度公の墓より